Bouz Bar3


第四夜 ★ 鉄鼠もどき・・・・前夜

「ここだよな、ここしかない・・・よなぁ・・・。えっと、この通りのこの場所だから・・・」
その男はメモを見ながら、その通りのある店のドアの前でブツブツと独り言を言っていた。きっと、そのメモには周辺の地図が書いてあるのだろう。メモから目を離すとドアに向かい、小さな声でため息交じりにつぶやいていた。
「それにしても話に聞いたとおり、目立たないドアだなぁ・・・。入って大丈夫なのか?。騙しじゃないよなぁ・・・。はぁ〜・・・。よし、思い切って入ってみるか。とりあえず様子見だけでもいいし・・・」
男はドアを開けた。

10日ほど前のことである。その男は、ある酒場で一人で酒を飲んでいた。少々酔っていたようで愚痴が次から次へとこぼれてきていた。頬杖をつきながら、ぼんやりとカウンターの奥に並んでいる酒瓶をながめている。
「くっそ〜、誰もかれも俺を見捨てやがって・・・・。どいつもこいつも俺をバカにしやがって・・・・。あぁ〜あ、これから先、どうすりゃいいんだ・・・・。はぁ・・・・・」
「あの・・・お一人ですか?」
一人愚痴っていた酔っぱらいの男に声をかけた女性がいた。その女性は、
「あの・・・初めて会ったばかりで失礼なんですけど、かっこいいですね」
と明るく言った。確かにその男は、モデルのような容姿をしていた。
「あっ、いや、その・・・・どうも・・・。え〜っと、あなたも一人なんですか?」
男は、声を掛けてきた女の方を振り返り、笑顔で答えた。
「えぇ、さっきまで男の人と一緒だったんだけど・・・・別れちゃったのよ」
「あぁ、そう、そうですか・・・」
「別れたすぐに、男に声をかけるなんて、なんて女って思ったでしょ。いいの、その通りだから。私はそういう女なのよ、きっと・・・。まあ、そんなことはいいわ。あなた、なんか暗い顔してる・・・。いい男なのにもったいないわよ」
「えっ?、あぁ、そうですか?。暗いかなぁ・・・・。暗いかも知れないですよね・・・・」
「何かあったの?」
「いや、まあ・・・・そうですねぇ、人生に迷っている・・・んですよ」
「ふ〜ん、何だか知らないけど、楽しく飲みましょ・・・」
そのあと、二人は随分と酒を飲み、語らいあったのだった。その中でのことである。
「あははは、ねぇ、そんなに悩んでいるなら、誰かに相談すればいいじゃない」
女は言った。
「相談って・・・どこに?。占い師とかは信用できないでしょ。以前に痛い目にあったこともあるし」
「占い師じゃなくて、不思議なBARがあるのよ。私も行ったことはないんだけど、知り合いがそこに行ってね、なんだか、それ以来人が変わっちゃって・・・。すごく明るくなってるのよね、あの店に行った人は・・・・あいつら、みんな明るくなった・・・・」
急に女は暗くなった。
「どうかしたんですか?」
「ううん、どうもしないよ。そう、そのBARに行った人は、なぜだか明るくなるのよ。スッキリしちゃうんですって。嘘みたいな話なんだけど、本当なのよね。私も一度行きたいな、と思ってるんだけど、なんだか決心がつかないっていうか・・・・本当は悩んでいないんじゃないか、っていうか・・・・あぁ、どうでもいいわ、そんなこと。それよりもあなたよ。あなた、そこへ行きなさいよ」
「はぁ・・・・どんなところなんですか」
「BARよBAR。カウンターしかない、しみったれたBAR・・・らしい。で、陰気くさいマスターがいるらしい。で、裏メニューをお願いしますっていうと、不思議なことがおこって、悩みが解決するらしいのよ」
「ちょ、ちょっと待ってください。それって・・・・そんないい加減な話はないですよね」
「それがあるのよ。この店のもう一本向こうの通りで、あまり目立たないBARなのよ。汚いドアが目印よ。あんた行ってみてよ。で、私に詳しい話、教えて」
「何を言ってるんですか。あの、俺、もう帰りますから」
「ちょっと待ってよ、いいじゃない、もう少しくらい。そうそう、その店の地図を書いてあげるわ。えっと・・・・」
女は、男が頼んでもいないのに地図を書き始めたのだった。その地図を男に無理やり渡すと、「はい、これ。じゃあ、行ってみてね。あぁ、眠いわ」と言ったかと思うと、カウンターにうつ伏せになって寝てしまったのだった。男は自分の分の勘定を済ませると、女を置いて店を後にした。
それから・・・・男は、その地図を捨てられなかった。ジャケットのポケットに入れっぱなしであった。ポケットに入っていることは知っていたが、捨てられなかったのだ。何かが引っ掛かっていたのだろう。男は迷い、迷い、迷いながらも、いつしか店を探しあてていたのだ・・・。

「いらっしゃいませ。ようこそBouz Barに。どうぞお好きな席にお座りください」
中に入ると、右手にカウンター、左手は椅子と通路、その奥に・・・あれはジュークボックスか・・・が置いてあるだけの、寂しいBARだった。カウンターの中には・・・確かに陰気くさいマスターらしき人が立っていた。客はいない・・・。
(やっべ〜、あのマスター陰気くさそうだよ〜。スキンヘッドだしぃ。店もなんか陰気だし・・・・。やばっ、目があっちまった。うわ、こえ〜、睨んでるよ。ど、どうしよう、出直すか・・・・)
「あ、あ、あの・・・・」
「あなたみたいに背の高い人が、そんなところで立っていられると邪魔なんですが」
「あ、あああ、その、すみません」
(いやいや、やばいよ、絶対ぼったくりだよ、これ・・・・。やばい、帰ろう)
「どうかしたのですか?。ちなみに、ここはBARですよ。ぼったくりもありません。店をお間違えになったのですか?」
「あ、いや、その・・・・」
(なんて答えりゃいいんだ。え〜っと、あぁ、そうか、店を間違えたでいいのか・・・)
「あの・・・知り合いに聞いて・・・・」
(何を言ってるんだ俺。帰るんだろ、ヤバいって)
「お知り合いに?」
(うわ、あの目、こえぇぇぇ・・・。絶対ヤバい人の目だよ、あれ。い、いかん、喉がからからだ)
「その・・・あの、とりあえず・・・座っていいですか」
(ち、違うだろうよ・・・・。えぇい、もういいや、何とかなるだろう。どうせ大金なんてもってないし。そのときは、殴られるか・・・・)
「どうぞ。先ほどからそう言ってますが」
マスターは憮然とした態度で答えた。男は、カウンターの真ん中に座ると、
「えっと・・・メニューは・・・」
「そこにありますよ」
(うわ、な、なんだその態度・・・。やっぱりヤバい人なんだ・・・怒らせないようにしないと・・・えっと、無難なものは・・・)
「あぁ、あ〜っと、じゃあ、バーボンをシングルで・・・・」
(とりあえず、様子を見てっと・・・・。で、裏メニューを、っていうんだっけ・・・。しまった、もう少し詳しく話を聞いておけばよかった。あの女の連絡先も聞けばよかった・・・・)
「かしこまりました」
マスターはそういうと、奥の酒瓶からバーボンのボトルを取り出し、水割りを作った。
「お待たせしました」
「あ、あぁ、どうも・・・・あぁ、うまいっすねぇ」
沈黙が流れる。いや、流れているのはジャズの調べだけだった。それがかえって空気を重くしていた。
「あの・・・・」
「なんですか」
「いえ・・・・」
再び沈黙。クラリネット音色が響いていた。
「えっと・・・・」
「なんでしょう」
「あの、その・・・・あれって、ジュークボックスですよね」
男は、店の奥の機械を指さして言った。
「動くんですか?」
「動きますよ。レコードも入っています。LPレコードです」
「ちょっと見てきていいですか」
「どうぞ」
男は席を立ち、ジュークボックスに近寄る。懐かしいなぁ・・・などとつぶやいている。
「えっ?、このLPって・・・これタモリってありますけど、あのいいとものタモリですか」
「そうですが」
「聞いていいですか?」
「どうぞ」
へぇ〜タモリってLP出してたんだ、どんな曲なのかな・・・と独り言を言いながら男は100円を投入した。
機械音とともにLPレコードが一枚持ち上がった。レコード盤が横になる。針が落とされた。あの独特のボソっという音がしたと思ったら、曲が流れはじめた。
軽快な曲とともにタモリの歌声が聞こえ始める。
「あははっ、なんすかこれっ、おもしれぇ〜。へ、変な歌。ダッセ〜、あはは。すっげぇなぁ〜。タモリの声、わっけ〜、若いですよね?」
男はカウンターの方を振り返ってマスターに問いかけた。が、そのとたん、男は凍りついた。マスターの顔は、まるで悪魔のような、死神のような暗く恐ろしい顔をしていたのだった。
(こ、こわっ・・・やっべ〜、俺なんかしたかなぁ・・・怒らせるようなこと言ったかなぁ・・・・。言ってないよなぁ・・・。まさか、タモリのことをバカにしたような言い方したのがいけなかったのか?。ジュークボックス触ったのがいけなかったのか?・・・・どうしよう、ヤバいなぁ・・・)
「あ、あの・・・・」
「なんですか?」
「いえ・・・・その・・・・あぁ、座ります。え〜と・・・・」
「曲を聞きたかったんでしょ。ならば、静かに聞いたらどうです」
突き放すような言い方に男はたじろいた。
「あ、あ、あぁ、そう・・・ですね・・・・」
タモリの軽快な歌が流れる。それは、その場の雰囲気に全くあわず、タモリの間の抜けた声だけが完全に浮いてしまっていた。

「あの・・・」
「なんですか?」
「・・・・えっと・・・バ、バーボンをもう一杯」
(返事がない・・・。聞こえたんだろうか・・・。態度悪いよな。今のは、俺じゃないよな、客に対する態度じゃないよな。俺は悪くないよな。言ってやろうかな、なんだその態度はって・・・・でも、怖いからやめた方がいいな。殴られるかもしれないし・・・・うん、黙っていよう)
「どうぞ」
マスターはそういうと、バーボンの水割りを出した。
ジュークボックスが機械音を立て始めた。いつの間にか、タモリの曲は終わっていた。再び、沈黙の中にはジャズの調べが流れていた。
「あの・・・・」
「お客さん、いい加減にして下さい。言いたいことがあるなら、さっさと言ったらどうですか。聞きたいことがあるなら、さっさと聞けばいいでしょう。用がないなら、黙っていなさい。あるいは、バーボンシングル2杯分の勘定を置いて帰りなさい」
マスターの声に男は驚いた。びっくりしてマスターの顔を見上げる。そして
「す、すみませんでした」
と憮然した表情でそういった。
(何なんだよ、何で俺がそんなこと言われなきゃいけないんだよ。何でおれが謝らなきゃいけないんだよ。俺は客だぞ。なんだよ、偉そうに・・・・。何様なんだよ。たかがBARのマスターじゃないか。偉そうにしやがって・・・・くっそ、みんな俺をバカにしやがって・・・・)
男は大きくため息をつくと、財布を取り出し、立ち上がった。
「ここに置いておきます」
カウンターの上にバーボンの代金を置くと、男はドアの方に向かった。ドアの取っ手に手をかける。そこで男は立ち止まった。
「あの・・・・」
「ふん・・・・なんでしょうか」
マスターの暗く重く、うんざりしたという感じの声。男は振り返った。
「あの・・・裏メニューってあるんですか」
「ふ〜・・・・やっと言えたんですね。・・・ありますよ」
「そ、そうですか」
「で?、どうするんですか?」
男はドアの取っ手に手をかけたまま、ドアに向かってつっ立っていた。何も答えない。しばらくして
「え〜っと・・・・それは・・・・・」
「後ろ向きで話しかけるとは、何と失礼な・・・・」
「あ、あぁ、すみません」
男は振り返った。
「あの、それは・・・・高いんですか?。その・・・そんなにお金がなくて・・・・」
「あなたのしている時計の100分の1ですかねぇ・・・、それ以下かも知れませんが」
「あっ・・・」
男は慌てて左腕の時計を握った。そして視線を床に落とした。大きく息を吸うと、
「あの・・・裏メニューをお願いします」
と蚊の鳴くような声で言った。
「高いですよ」
「払えないときは、これを置いていきます」
男はそういうとブルガリの時計を腕から外した。
「ふっ、冗談ですよ。それよりも・・・・・耐えられますか?」
「耐えられるかって・・・・苦しいんですか?」
「苦しいかも知れませんねぇ、あなたにとってはね。・・・・決して後悔しないでください。何があっても、私のせいにはしないでください。あなたが望んで、あなたが注文したのですから」
「も、もちろんです」
「その覚悟があるのなら、裏メニューを作りましょう。どうぞ、お座りください」
マスターはにこりともせず、暗い顔のままそう言った。

男は再びカウンターの真ん中あたりの席に座った。
「ご注文は」
マスターが問いかけた。
「裏メニューをお願いします」
「裏メニューのことは、どこでお聞きしたのですか?」
「この通りの一本向こうの通りのBARで、ある女性から聞きました」
「その女性はここに来たことがある方ですか?」
「いいえ、来たことはないと・・・一度行ってみたいとは言ってましたが・・・・」
「そうですか・・・では、裏メニューの詳しいことは聞いていないですね」
「はい」
「よろしい。では、約束していただきます。これから起こることを決して人に話さないでください。裏メニューがある、ということは話しても結構ですが、それがどういうものかは口外しないでください。これは掟です。この掟を破ると、呪いが掛かり、とんでもないことがあなたに襲いかかります。それでもよろしいですか?。戻るなら今のうちですが」
マスターの顔は、いつになく厳しいものだった。男は、マスターに圧倒され、しばし考えていたが、
「は、はい、大丈夫です。決して口外しません」
固い表情でそう言ったあと、男は「ところで・・・」と砕けた言い方をしだした。
「ところで、その約束を破った人はいるのですか?」
「いいえ、いませんが」
「じゃあ、約束を破っても、とんでもないことが起こるって、わからないですよね」
「そうおっしゃる方は過去にいました。そういう方には、裏メニューはご遠慮してもらっています。どうぞ、お帰り下さい」
マスターは、カウンターの中で座り込んでしまった。
「あっ、いや、そういう意味で言ったのでは・・・すみません、申し訳ないです」
男はあわてて頭を下げたが、マスターは返事をしなかった。
「あの・・・どうしてもダメですかねぇ。でも、そういう質問って当然しますよねぇ・・・・」
急に男はへらへら笑いだした。マスターは、その顔を一瞥すると
「あなたには裏メニューはもったいない。いや、裏メニューなど出さなくても、あなたがどんな人間かよくわかる。もういいから帰りなさい。あなたに裏メニューを注文する資格はない」
「な、なんですか、それ。少なくても俺は客ですよ。そんな言い方ないじゃないですか」
「裏メニューを出す出さないは、私が決めることですから。せっかくこの店に来られる縁があったのに・・・・残念なことです」
そういうと、マスターは
「今日は店じまいをしますので・・・・」
といい、カウンターの外に出てきたかと思うと、掃除道具を出し始めたのだった。男は慌てた。
「あ、す、すみません。ちょっと、言い過ぎました。あの・・・なんとか、その・・・・裏メニューを・・・・お願いできないでしょうか。どんなことが起こっても覚悟しています。お願いです。裏メニューを・・・・」
男は、カウンターの上に頭をつけて頼みこんだ。
マスターは哀れなものを見るような眼をして男を眺めた。
「はぁ〜・・・・」
深いため息をつくと、「自己責任ですからね。何があっても知りませんよ」と暗く男に告げると
「これを握って10数えてください。そうすれば、あなたに相応しい飲み物の名前が出てきます。私はその名前のドリンクを作るだけです」
と言って、怪しい板きれを男の前に差し出した。
「その木札は、京都のある焼失した風呂屋の下駄箱の鍵です。なぜかその一枚だけが焼け残り、なぜか妙な力を身につけたのです。いわば呪いの木札です。ですから、くれぐれもこのことは口外しないようにしてください」
マスターは、男を刺し殺すような目で見つめた。あまりの迫力に男は身を引いた。
「は、はい、わ、わかりました・・・・。じゃ、じゃあ、握ります。じゅ、10数えるんですね」
そういうと、男は木札を握りしめ、数を数え始めた。
「8、9、10・・・・う、うわ、なんだこれ!」
男は驚いて木札を放り出した。木札は勝手に震えだしている。しばらくカウンターの上で震え、ガタガタ音を鳴らしていたが、やがて木札は動かなくなった。すると、その木札にぼんやりと文字が浮かんできた。
「鉄鼠(てっそ)か・・・ふうぅん・・・・おや、なるほど単なる鉄鼠ではないのか・・・」
マスターは、口の端だけでニヤっとすると、
「鉄鼠もどき・・・・それがあなたの正体だ」
と冷たく言い放った。男は、目を丸くして
「な、なんですか、それ。てっそもどきって・・・・・」
「今からあなたに相応しい飲み物を作ります。その飲み物の名前は、鉄鼠もどき、といいます」
そういうと、マスターは男に背を向け、何かを作り始めたのだった。

しばらくして、カウンターの上に飲み物が置かれた。それは鉄錆の色のような濁った赤色とグレーの色の縞模様だった。斜めに鉄錆色とグレー色が縞模様になっているのだ。
「こ、これは・・・・・。す、すごい色ですね・・・・。こ、こんなの飲めません・・・・」
男は、苦笑いをした。しかし、マスターは少しも笑っていない。
「いいえ、飲んで頂きます。裏メニューを頼んだのはあなたですから。何があっても覚悟をしている、とおっしゃいましたよね」
マスターは、そういうと、男の耳に顔を近付け、
「どうしても飲んでもらいます」
と囁いた。男は、緊張した。額から汗が流れる。かすかに震えてもいた。
「た、確かに・・・・確かに、そういいました。言いましたが、これは飲めないでしょう」
「飲めないものは出しません。約束です。飲んで頂きましょう。それとも、呪いにかかりますか?。それも面白いですけどねぇ」
マスターは、ニヤリとすると横を向いてしまった。男は、一度眼を閉じると、大きく息を吸って吐き出し、グラスをつかんだ。そして、一口飲んでみる。
「あっ、うまい・・・・こ、こんな不気味な色をしているのに、すごくおいしいです」
そういうと、男は、ゴクゴクとその怪しい飲み物を飲んだのだった。

グラスの3分の2以上を飲み終えたころだった。男の目つきが変わった。
「くっそ〜、どいつもこいつも俺をバカにしやがって。俺様のことをバカにしやがって・・・・許せねぇ、絶対に許せねぇ・・・」
男は一人、興奮してしゃべり始めたのだった・・・・・。


鉄鼠もどき・・・後夜

「くっそ〜、どいつもこいつも俺をバカにしやがって、俺のことを虚仮にしやがって・・・・。許せねぇ・・・・絶対に許せねぇ」
男の眼は、怒りに燃えていた。
「何が・・・坊ちゃんにはこの会社を維持することは無理です、だ!。あのクソジジがっ!。俺を何だと思ってるんだっ!。クッソ!。偉そうな顔しやがって。オヤジもオヤジだ。その言葉を真に受けやがって!。何が、そうだな君の言うとおりだ、だっ!」
男はカウンターを叩いた。
「しかも、俺の目の前でだ。俺がどれだけショックだったか・・・・。あのクソオヤジめ。クソジジイにクソオヤジ!。許せねぇ。俺には・・・・俺には・・・・計画だってあったんだ。俺が後を継いだら、あんなこともしよう、こんなこともしよう・・・・って。ちゃんと計画だってあったんだ。それなのに・・・・それなのに・・・・・。あんなクソジジイの言うことを聞きやがってっ!」
興奮のあまり、男は肩で息をしていた。顔も真っ赤である。
「そのクソジジイというのは?」
「占い師だよ。どこの馬の骨かはしらないけど、どこで見つけてきたのか知らないけど・・・。占い師風情に俺は蹴落とされたんだよ」
「占い師の言葉は、後押しだけであって、父親の心は初めから決まっていたのではないですか」
「ふん、どうだか・・・・。オヤジはあの占い師にぞっこんだったからな」
「あなたの事業計画のことは父親に話さなかったのですか?」
マスターが静かに聞いた。
「話したさ。話したとも。はん・・・・、で何と言ったと思う?。俺の計画は、無理だってさ。一言で終わりだよ。そんなことは現実的に無理だ、そんな計画は無謀だ、誰もついては来ないし、会社としてそんな危険な計画には金を出せない、だってさ。バカにしてるよなぁ」
「それで引き下がったのですか?」
「まさか・・・。俺だってバカじゃない。ちゃんと計画書を作って、会議にかけてもらったさ。でも・・・でも・・・誰も理解しなかった。若い社員に、俺の計画はどうか聞いてみた。みんな賛成してくれたさ。若いヤツはわかっている。わかっていないのは、年寄りだけだ。あいつらは・・・・今の時代にはついていけないんだ」
「で、結局、計画は採用されなかった」
「あぁ、そうさ。で、俺もお祓い箱さ。くだらない計画しかできないお前には、会社を継ぐ資格はない、お前に任せたら社員は路頭に迷うだけだ、だとさ・・・・。嫌になるぜ。・・・・・それで、バカオヤジは、会社の権利をさっさと売っちまった」
「でも、そのお金はあなたの手にも入った」
「よくわかるじゃねぇの、マスター。その通りだよ。あんた鋭いよ」
「お誉め頂いて光栄です」
マスターは、にこりともせず、そう言った。
「金は手にはいった。俺の取り分だから、当然だ。ついでに、オヤジがくたばったんで・・・バチがあたったんだ、ははは、ざまあみろってんだ・・・・・で、オヤジの分も俺のところに入ったんだ。ラッキーだよ、ラッキー。これで俺は、あいつらを見返すことができる・・・・そう思ったんだ。俺を追い出したヤツラを見返すことができる・・・とな」
男は、そこで一息ついて、裏メニューのドリンク・鉄鼠もどきを飲みほした。
「ふぅ〜、うめぇなこれ。ホント、うめぇ。・・・・俺は、その金で自分の会社を起こした。で、俺の計画を実行に移すことにしたんだ。オヤジが創った会社は、ライバルだ。あははは、あんな会社、つぶしてやるさ!、そう思ったんだ。だけど・・・・だけど・・・・、あぁぁぁぁ、何もかもうまくいかねぇぇぇぇぇ!、あぁぁぁぁ、どうしてなんだ、どうしてなんだぁぁぁぁ!」
男は、頭をかきむしり、立ち上がったかと思うと、いきなりカウンターに突っ伏した。両手でカウンターを叩いている。
「いったい何がどうしたのですか?」
マスターの声は、あいかわらず、淡々としたものだった。男は、顔を起こして言った。涙とよだれて顔は汚れていた。
「俺は・・・・、会社を起こした。で、オヤジが創った会社から、俺の計画に賛成してくれた若い社員を引き抜こうとしたんだ。なのに、アイツラ・・・・。俺にはついて行けないとぬかしやがった。社長の計画は理想であって、現実を無視しています、そんな人には危なくって、ついていけませんよ、だと・・・・。あのときは賛成したじゃないか、と言い返したら・・・横目でにやりと笑って・・・お世辞ですよ・・・。あ〜、あのやろう、いいや、どいつもこいつもだ!。あの女子社員だって俺のおかげで会社に入れたんだ。なのに・・・くっそ〜、どいつもこいつも、許せねぇ。生意気ばかりいいやがって!」
「でも・・・・、彼らの言い分は正しかった」
ピシャリとマスターの声が響いた。男は、そっとマスターの顔を見る。
「ひっ・・・・、う、うわぁぁぁ」
男は椅子からずり落ちた。
「なにを怖がっているんですか?。何も怖いことはない」
もう一度、マスターの顔を見る。
「あ、あぁ、す、すみません・・・。いや、その・・・・鬼がいたような・・・・」
男は椅子に座りなおした。

「失敗したんでしょ、あなたの計画とやらは・・・・」
「あぁ、失敗したよ。はっ、いい笑いものさ。・・・・・くっそ、なんでだよ、なんで・・・どいつもこいつも使えねぇ・・・・そうだよ!、その通りだよ!、失敗したさ。失敗したよ・・・・。それが何だって言うんだ!。俺が悪いんじゃない、俺のせいじゃない!、アイツラが悪いんだ!」
真っ赤な顔をして、男は怒りだした。
「俺は、社員を募集したんだ。いい給料だったはずだぜ。で、そいつらに、俺の計画を実行させたんだ。ところが、はん、アイツラ無能で・・・・。バカばっかりだ。結局、俺の計画を台無しにしやがった。あのバカどもが!。おかげで、俺の復讐計画も・・・・あの会社への復讐も・・・・できなくなってしまったんだ。どいつもこいつも無能ばかりだ!。バカばっかりだ!」
男は大声で叫んだ。
「本当にそう思っているんですか?」
「何だって?」
「本当に、どいつもこいつも無能ばかりと思っているんですか?」
マスターは、男の耳元で囁くように言った。男は、眼をきょろきょろさせた。
「な、なんだっていうんだ・・・・。どういうことだ、それ・・・」
「あなたが募集した社員は何と言ったのですか?」
男の目はうつろになる。口はだらしなく開かれたままだった。
「ヤツら・・・・うぅぅぅ・・・・」
「さぁ、言ってみなさい。あなたが募集した社員は何と言ったんですか」
男の耳元で悪魔が囁いた。男は、頭を左右に激しく振りだした。
「あぁぁぁぁ、あぁぁぁぁ、あぁぁぁぁ・・・・・」
「さぁ、言うんだ!」
男は頭を振るのを止めた。だらしなく開けた口が痙攣し始める。そして、その目は・・・・腐っていた。
「ヤツらは・・・・給料がいいから来たけど・・・・・、社長が・・・・・社長が・・・・・あんたじゃ・・・・・・つぶれるわな・・・・と。・・・・・あんな仕事・・・・・できるわけが・・・・ないだろ・・・・・・あ、あんたバカ・・・・じゃないの・・・・ダメオだな・・・・・と・・・・・」
その言葉を聞いたマスターは、ニヤリとした。そのにやつきは・・・・とても厭なものだった。
「お、俺・・・・俺がいけないのか?。俺がおかしいのか?」
男はキョロキョロしながらそういった。もはやその目には何も映ってはいない。
「あなた、わかっているんでしょ。本当は誰が無能か、ということを」
「ど、どういうことだ?、お、俺?、俺?、無能なバカは俺?。そ、そんなはずはない。俺様が・・・・無能だなんて」
「賢い人間なら、この状況において誰が最も無能なのかがわかるはずだ。それがわからないのは・・・・・・・・無能だ」
「お、俺、俺が無能だっていうのか?。俺が無能だっていうのか?」
男は興奮し始めた。
「う、うるせー、お前まで俺をバカにするのかっ!、そんなはずはない!、この俺様が無能だなんて!・・・・何だって言うんだ!。お前は何様だ!、こんなしけたBARのマスターのくせに!。いい加減にしろ!。くっそ〜、どいつもこいつも・・・・俺をバカにしやがって!」
男は立ちあがって、今にもマスターに掴みかからんばかりの勢いで、マスターを睨みつけた。しかし、マスターは
「仕方がないでしょ。あなたは無能なんですから」
と冷たく言い放ったのだった。男は・・・・固まってしまった。

「座りなさいよ」
マスターは優しく言った。その言葉に、男は静々と座り込んだ。
「あなたは、無能です。現実が見えない、大バカモノです。いや、鉄鼠(テッソ)になろうとしてなれない、単なるドブネズミですよ」
男の目がきつくなった。マスターをにらんでいる。
「おや、ドブネズミといわれ、怒りましたか。でも、事実ですよね。裏通りのうらぶれた、しけたBARでくだをまいている男。まるで、下水をうろついているドブネズミそっくりじゃないですか」
マスターの言葉に、男は横を向いた。
「あなた、わかっているんでしょ、自分の無能さが。あなたのお父様の決意が。占い師の男が言った、坊ちゃんには経営は無理です、という言葉の意味が。本当はわかっているんでしょ?。どうしてそう言ったか、わかっているんでしょ?。もし、わかっていないとするならば、あなたは、本当に大バカモノですよ」
そこまで言って、マスターは男を見つめ直した。そして、首を傾けると、
「いや、ひょっとしたら、理論的に思考できない性質なのか?」
と、ぼそりとつぶやいた。
「わ、わかっていましたよ・・・・。俺は、たぶん、人よりも劣っているんだってことは、わかっていましたよ・・・・、う、うぅぅぅ」
男の眼から、再び涙がこぼれ始めていた。マスターは少しほっとした顔になる。
「よかった・・・・、わかっているのだね」
「小さいころから、何をやるにしても手が遅く、うまくできるのは運動だけでした。学校へ行ってからも勉強の方は・・・・。しかも、みんなが笑っていることで笑えないし、みんなと話が合わないことが多くて・・・・。俺は、ちょっとずれているんじゃないかと・・・。だから、ずいぶんバカにされて・・・・。小学校のときは、バカ呼ばわりされて・・・・。でも、そんなアイツラが憎たらしくて、復讐したくて、俺は一生懸命勉強したんだ。で、私立の中学へ合格した。幸い、オヤジは事業を成功させていて、裕福な生活をおくれていた。でも・・・・」
「中学に行っても、友達ができなかった」
「そう・・・・なんです。誰も俺のことをわかってはくれなかった。俺も・・・・周囲のヤツらがしゃべっていることが、よくわからなかった。同じTV番組やドラマを見ても、同じような感想を持てなかった。マンガを読んでもどこが面白いのかよくわからなかった。だから、話題が少しも合わなかった。仲良く話している輪の中に入って、俺が何か言うと、とたんにしらけて『お前、それちょっと違うんじゃないの?。ずれてるよ』と言われた。そんなことはしょっちゅうだった。俺はずれている・・・・・。俺はずれている。俺はずれている。俺はずれている・・・・。俺には、友達がいなかった・・・・」
「でも、友達を作ろうとしたんでしょ」
「そう、一緒に遊んでくれる友達が欲しかった。だから、ちょっと悪い仲間と付き合った。アイツラは金さえ与えれば、ホイホイついてくるから・・・・。そいつらとは、高校へ行っても付き合っていた。いや、ついこの間まで付き合いがあったんだ。みんな、そこそこの会社に就職もしたし、利用もできると思っていた。みんな俺に協力すると思っていた・・・・だけど・・・・」
「金がなくなったら付き合いは途絶えた」
「そう、そうなんですよ。そうなんですよ。アイツラひどい奴らだ。俺が無一文になったとたん、電話にすらでない」
「当然でしょ。金で買った友情ですからね」
「友達だと思っていたのは、俺だけだったんだ。みんな、裏切り者だ・・・・冷たいヤツラだ。中学の時だって、高校のときだって、ずいぶんいい思いをさせてやったのに。誰のおかげで毎日飲み食いできたと思ってるんだ。くっそ!」
「裏切られても当然でしょ。金で友情は買えないのだからね。あなた、まだ、わからないのですか?」
「わ、わかっています。わかっていますよ・・・・。俺は、金で友情を買っていただけ、です」
マスターは再び疑わしい目で男を見ていた。しきりに首をかしげている。そして、その男の目を見て言った。
「あなたには、会社を率いる力なんてない。友情のなんたるかもわかってない人に、人を使うことなんてできない」
「うっ、うぅぅ・・・・そう、そうかも知れません。そうなのでしょう。俺は・・・・単なるバカなのでしょう」
「本気で思ってないでしょ。あなたは、本気でそう思ってはいない」
男は、マスターの眼を見てのけぞった。
「ほ、本気で思ってますよ。俺は、無能なんですよっ!。いいじゃないですか、それで・・・・」
そう言うと男は顔をそむけた。マスターの目の前には男の耳が見えている。マスターは、その耳に顔を近づけ、
「嘘をいうな。わかったふりをしても無駄だ。いい子ぶるんじゃない、いつまで仮面をかぶっているんだ。いい加減に鉄鼠になることをあきらめたらどうだ。お前にはその実力はないんだよ」
密やかに言った。

「うぅぅぅ、うわ〜、うわ〜、うわ〜」
男は叫んで立ちあがった。椅子が倒れる音が響いた。
「何だって言うんだ。テッソってなんだよ。いい加減にしろよっ!。俺はそんなものじゃない。俺様がなんだっていうんだよ。どいつもこいつも、俺様に逆らいやがって。なにが、あんたにはついていけない、だよ。俺が何をしたっていうんだ。ただ、俺を振った女を殴り飛ばしただけじゃないか。それのどこがいけないんだよ。あんな女、やるだけの女じゃないか。そんな分際で、俺様を振るなんてっ。そんなヤツに罰を与えてどこが悪いんだ!。腹いせをして何が悪いっていうんだ。復讐して何が悪いんだよ。アイツらにはたっぷり金をやったじゃないか。何が不服なんだ!。誰のおかげでいい思いをしたんだ。俺様のお陰だろ。それなのに、アイツラ・・・・金がなくなったらおさらばかぁ?。汚ねぇ奴らだ。社員だってそうだ。誰一人、俺のために働こうなんて思いもしない。みんな金だ。金だけが目当てなんだ。ヤツラは金だけが目的なんだ。誰も・・・・誰も・・・・俺のことを認めない・・・・。みんなで俺のことをバカにしやがって!」
男は立ったままドアの方を向いて叫んでいた。
「金でしか人間関係を保つことができない。金でしか、人間の気持ちを推し量ることができない・・・・哀れな人だ。世の中は、金がすべてではない。人間関係は、金でできあがっているわけではない。金でしか物事を考えられないからこそ、あなたの周りから人がいなくなったのだ。あなたが、そんな人間だから、俺様なんて思っているから、誰もついてこないのだよ。実力もない者が、ちょっとしたお金を持ったがために、大きな勘違いをしただけなのだ。いい加減、そのことを理解したらどうだね。自分の無能さを認めたらどうだね。」
男は、マスターの方を振り向き、睨みつけ、マスターを指さして叫んだ。
「なんだ、なんだ、なんだ、その言い方は!。それが客に向かって言う言葉かっ!。俺様はな、客だぞ。きゃく!。わかる?、お前バカなんじゃないの?。お前はな、客の俺様に酒を出していればいいんだよっ!。うおぉぉぉ、どいつもこいつも俺をバカにしやがってっ!。あぁぁぁ、みんな死ねばいいんだ。消えてなくればいいんだっ!。あぁぁぁぁ、厭だぁ〜、もう厭だぁぁぁ・・・・・」
男は椅子を蹴りまくっていた。すべての椅子が倒れていた。
「泣いて叫べば何とかなると思っているのか?。この無能男が!。お前みたいなヤツ、誰も助けてはくれないぞ!」
「わかっているさ。誰も助けてくれないさ」
「なぜ助けてくれないのか、わかるか?」
いつになく、厳しい口調のマスターだった。
「わかるさ。簡単さ。俺に金がなくなったからだ。俺は・・・・無一文だ。だから、みんな離れた。誰も彼も、俺の金が目当てなんだっ」
「バカバカしい。あなたが、いったいどれだけの金をもっていたというのだ。何億と持っていたわけでもあるまい」
「はん、あいつらにしたら大金だ。俺様には大した金じゃないけどな。ヤツラにとってみれば、大金なんだよ。ヤツラは金に群がるハイエナなんだよっ」
「まだわからないのか!」
一瞬で、男は怯んだ。その男のおびえた目を見て
「あっ・・・やはり、そうなのか・・・・・本当に理解できないのか?」
マスターの目つきが変わった。先ほどまでは氷のように冷たい眼をしていたが、哀れみの色がさしてきたのだった。
「やはり・・・本当に理解できていないのか?」
「な、何が・・・・何が理解できないっていうんだ」
「あなた、自分のことがわかっていないのか?。なぜ人がついてこないのか・・・・本当に金に群がる者しかいないと思っているのか・・・・本当に鉄鼠もどきなのか・・・・」
「な、何だって言うんだよ、そのテッソもどきとかいうの。俺様がそれだっていうのかよ・・・・」
「40代半ば・・・にして、その言葉づかい・・・。自分のことを俺様という・・・・。どうやら、これは・・・・。そうだな、まずは鉄鼠から教えてやろう。鉄鼠とは平安時代の天台宗の僧・頼豪(らいごう)のなれの果てだ。頼豪は、白河天皇の皇子誕生の祈祷を行った。成功したら何でも褒美をとらせるという約束だった。祈祷は成功し、白河天皇に皇子ができた。頼豪は褒美として園城寺に戒を授ける壇(戒壇・・・当時この設備を備えた寺院は寺院の中でも最上位とされた)を備える許可を願った。しかし、比叡山の反対があり天皇はこれを拒否した。頼豪はこれを怨み、100日間の断食の末、死んで鉄の牙をもつ大鼠・・・鉄鼠(てっそ)に生まれ変わったのだ。鉄鼠は、大量の鼠を率いて延暦寺を襲った。寺にとっては鼠は大敵だ。大切な経本が食われてしまうからね。そこで、比叡山は頼豪を神として祀り、怒りを封じたのだ。これが鉄鼠だ」(参考:日本妖怪大辞典、角川書店)
「ふん、で、なんで、俺様がそいつのもどきなんだ?。えっ?」
「あなたは、父親に復讐しようとしていた。父親に進言した占い師も、父親が創った会社自体にも、その会社の社員にも復讐しようと思っていた。鉄鼠となった
頼豪のように」
「そうさ、復讐したかった。アイツらを・・・ヤツらを苦しめてやりたかった・・・・。俺には・・・俺にはその力があるんだ!」

「しかし、それは無理だった。なぜなら、あなたは鉄鼠ではなかったからだ。
「鉄鼠ではなかった・・・・」
「そう、もどきだったのだ。鉄鼠もどきとは、鉄鼠になろうとしたが、その実力もなく、周囲からの信望もなく、無能であり、しかも、本人は己の無能さを理解していない、否、理解できない者のことを言うのだ。君は、どうやら真の鉄鼠もどきに侵されているらしい」
「はぁ・・・・・。何だっていいっすよ、そんなことは・・・・。なに言ってんだか、わけわからない。俺は、もう疲れた・・・。金もないし。残ったのはこのブルガリの時計だけ。なにもない。あぁ、借金だけは残ったな。あははは」
男は肩を落とし、力なく笑った。
「この先、どうすりゃいいのやら・・・・はははは」
「簡単だ。働けばいい。安い給料で人に使われればいい。そうでないと・・・・もどきは離れてはくれない」
「働けってか?。他人に雇われろと・・・・。はん、そんなことをするくらいなら・・・・。もういいっすよ。ここに来れば、悩みは解決するって聞いたけど、何のことはねぇ、バカにされただけだ。・・・・他人に使われて働けってか。誰に言ってるんだ、おい。俺様をなんだと思ってるんだ」
男はマスターの胸をつかんだ。
「それがあなたの本音ですね。どこまで言っても俺様だ。救いようがない。仕方がないな。もっと苦しむがいい。お金のありがたさを知るがいい。自分の無能さ、実力のなさ、バカさ加減を知るがいい・・・・。あなたには・・・・無理かも知れないが・・・・」
男はマスターを突き放して
「偉そうなことを言うな。ふん、たかだかBARのマスターのくせして!」
と、ありったけの凄みを利かせて叫んだ。しかし、それは虚しいだけだった。
「何を言っても無駄なようだ。・・・・・そうだね、好きにするがいいでしょう。俺様・・・で生きていけばいい。しかし、どこまでいっても、もどきはもどき。本物にはなれない。それを覚えていなさい」
マスターは、ため息交じり言った。哀れみの籠った声だった。
「ふん、うるせー、こんなしけた店、くるんじゃなかった。バカにしやがって。俺だったら、もっと流行らせるさ。こんなしけた店じゃなくてな」
男はそういうと、転がっている椅子の一つを蹴飛ばし、足をどたどた踏み鳴らして、ドアに向かった。そして、ドアの取っ手に手をかけ、
「くっそ〜、何でうまくいかないんだ・・・何でみんな俺を・・・・・・・」
それだけいうと、乱暴にドアを開けてさっさと出て行ってしまったのだった。残ったのは、重苦しい空気だけだった・・・・。
「自分の姿が見えないもどきは・・・・おそろしい・・・・」
マスターは、首を横に振りながら、転がった椅子を起こし始めたのだった・・・。鉄鼠もどき・完


第五夜★絡新婦(じょろうぐも)の毒・・・・前夜

「いらっしゃいませ」
「久しぶりね」
バーテンとその女は同時に言った。そのBARの入口には、背の高い男が立っていた。女はカウンターに座っていた。彼女は、男の方を見向きもしないで
「私に会いに来たんでしょ」
と冷たい口調で言った。男は「ふん」と鼻で笑いながら女の隣に座った。
「バーボンの水割りを。ダブルで」
「相変わらずバーボンなのね」
女はやはり男の顔を見ない。カウンター奥に並べられたボトルの列を見ている。手にはウイスキーグラスが握られていた。
「今日はカクテルじゃないんですか」
「たまにはウイスキーもいいものよ」
そう言って、女はようやく男の顔を見た。
「で?。私に用があったんでしょ?」
男は差し出されたバーボンを一気に半分ほど空けると
「大した言い方だな。なんでそんなことが言えるんだ」
と不貞腐れたような言い方をした。が、心底怒っているわけではない。その男は、会話を楽しんでいるようでもあった。
「わかってるくせに。行ったんでしょ。で、その報告に来た。違う?」
女は再びカウンターに並んだ酒瓶を眺めている。
「行ったって?。どこへ?」
「とぼけちゃって・・・・。素直にいえばいいのよ。あのBarへ行ったって。で、あなたはそのことを私に話しに来た。そうでしょ?」
「お見通し・・・・か。ビンゴだよ。その通り」
男は残っていたバーボンを飲み干すと、もう一杯注文した。
「で、どうだったの?」
「ずいぶんせかすねぇ。そんなに気になるなら自分でいけばいいじゃないか。他人に行かせたりしないで」
男はムッとしていった。女の興味が自分にないことが面白くなかったのか。そんな男の顔を女は横目で眺めた。まるで嘲笑うかのように。
「あっそう。じゃあいいわ。聞かない」
そう言って女は立ち上がろうとする。
「まあ、待てよ。ホントせっかちだな。今話すよ。悪かったよ。あんたの言う通り、俺はあのBarの話をしに来たんだよ。悪かったよ。まあ、座れよ」
「ふん、初めから素直にそう言えばいいのよ。もったいぶる必要なんてないのにぃ」
男は大きくため息をついた。
「もったいぶってるわけじゃないけど、本題に入る前に・・・・その前ふりってものがあるじゃないか。・・・・まったく、なんて女だ・・・・。まあいいよ、話すよ」
「あんたに言われたくはないわぁ〜」
女は歌うようにそう言ったあと、横目で睨みつけた。男は女の鋭い視線に一瞬たじろいたが、溜息を一つ吐くと、話し始めたのだった。
「あんたに教えてもらったBar・・・悩み事を解決してくれるって話のBar・・・行ってきたよ。結論から言うと、最低だな。ムカついただけだ。行くんじゃなかったよ。」
男はここで女の方を見たが、女は知らぬ顔をしていた。男はまた溜息を吐くと、仕方がなさそうに話を続けた。
「はっ、何が悩み事を解決するだよ。とんでもないね。それどころか、散々人のことをバカにしやがって、コケにしやがって・・・・。頭にくるぜ。もう絶対、二度と行かないよ、俺はね。・・・・あのマスター、俺になんて言ったと思う?」
再び女の方を見る。女は面倒くさそうに男の方を向き、
「なんて言ったの?」
と事務的な口調で聞いた。男はその女の口調が気に入らなかったが、不貞腐れても仕方がないと思ったのか、女の方を見ずに
「俺に『お前は妖怪のなんとかモドキだ』っていったんだぜ。バカバカしい。妖怪だぜ、妖怪。子供じゃあるまいし・・・。くだらねぇ。」
と言うと、バーボンの水割りをあおった。
「しかも、俺はバカで脳なしだと言いやがった。『お前は所詮モドキだから本物にはなれない、ダメなヤツだ!』だってよ。ムカつくぜ。おまけに『お前は中身のない格好だけの人間だ。能力もないくせにできると思いこんでいる』だって。『もっと自分を知るがよい』な〜んて陰気臭い、死人のような顔をして言いやがった!。うぜい、ホント、うぜい。あいつ、何様のつもりなんだ!。あー、思い出しただけでムカツク!」
「ちょっと興奮しないでよ。酔ってるの?。もう少し落ち着いて話してくれる」
女は、さも嫌そうな顔をして言った。が、男の興奮は収まらなかった。
「ふん、あんなのは、嘘ばっかりだよ。インチキだよ、インチキ!。全く、行って損をしたぞ。あの店はな、人のことを小馬鹿にするだけの店さ。とんでもないね。何が悩み事が解決するだよ。詐欺だよ詐欺。バカバカしい、くだらん、サイテーだ、だいたい・・・」
女はイラついてきていた。男のくだらない愚痴など聞きたくはなかった。だから、男がまだ言いたそうなのを途中で止めたのだった。
「あのね!、興奮しないで、順を追って話してくれる。いったい何がどうなってるのか、わからないじゃない。あなたの愚痴を聞いているわけじゃないの。あんたって話が下手ねっ」
女の視線と勢いに男はたじろぐ。う、うぅん、と咳払いを入れると、「だ、だから前ふりだって・・・悪かったよ・・・」と小声でブツブツ言うのが精いっぱいだった。そして、
「初めから順を追って話すよ。店に入ると、階段を2〜3段下りるんだ。で、カウンターしかない、言われた通りの陰気臭い店で、カウンターの中には陰気臭い坊主頭のマスターがいただけ。客はいなかった」
とようやく本題を語り始めたのだった。小声で女は「ふん、それでいいのよ」と言った。
「で、俺はカウンターに座って、すぐに裏メニューを頼んだ。そうすると古くて汚い木の札のようなものを陰気臭いマスターが差し出したんだ。それを握れって言ってね・・・・あっと、そういえば、これって言っちゃいけないだった。アブねぇ」
男はアブねぇアブねぇ、ヤバイ、ヤバイ、と小声で言っている。女は、その態度にムカついていた。が、あくまでも冷静に男に尋ねた。
「なにそれ、言えないってこと?。言うと何か危ないことでもあるの?」
「ホントかどうかは知らないけど、なんでもそのマスターが言うには、このことは他人に話してはいけないっていうことらしいんだよ。禍があるとか、ヤバいんだとか・・・・」
「あのね、あんた頭悪いんじゃないの?。私はね、なぜ言っちゃいけないの、って聞いてるの。まったく、ホントバカねぇ」
「な、なんだよ、その態度は。あーん、人が親切に教えてやろうって言っているのに。そ、それが教えてもらう者の態度か!」
男は目いっぱいの虚勢を張った。が、女は知らぬ顔であった。
「なんとか言えよ。お前なんか、目じゃねぇんだよ。あぁん、どうなんだよ、なんとか言えよ!」
男は椅子から立ち上がってすごむ。それが女には全く効果がないことには気づかない。女は
「もういいわ。別に聞きたくはないわ」
と冷たく言うと、
「ねぇ、カクテルちょうだい。いつもの。気分をなおしたいの」
と男を無視したのだった。男は、しばらく立ったままでいたが、自分の滑稽さに気付いたのか、ゆっくりと座った。
「わ、悪かったよ。ヤベェ、ちょっと酔ったかな・・・・」
男は自分の行動をごまかすかのようにそう言うと、水割りを飲み干した。もう一杯おかわりを注文する。
「ど、どこまで話したっけ・・・、ああそうだ・・・・はぁ・・・その木札か、それにはなんでも呪いがかかっているらしいんだ。その裏メニューのことを詳しく他人に話すと、恐ろしい呪いに遭うらしい。だから言えないんだ。あの陰気臭い顔で言われると、嘘だと思えなくなるんだよなぁ・・・・」
男は眉間にしわを寄せて、真剣にそう言った。女はしばらくその顔を見つめていたが、やがて
「あははは、あはははは、あ〜っはっはは」
と大笑いし始めた。男は驚いて女を見つめた。
「あは、あははは・・・ふぅ・・・笑っちゃったわよ。あんたって、めでたいわねぇ。そんな話信じるの?。バッカじゃないの。呪いだって。おかしぃ・・・。ねぇねぇ、聞いた?。この人、呪いを信じてるんだって。大笑いだわ。なんて気の小さい。呪いが怖いの、あんた。バッカみたい。あはははは」
男は瞬く間にふくれた。口がへの字になる。思いっきりカウンターを蹴って立ち上がると、
「うるせーな、バカにするな!。笑うんじゃねぇ!」
と叫んだ。バーテンがあっけにとられている。女は口を開けたまま男を見つめた。そして
「あら、また怒るの?。何を威張ってるの?。うふふふ・・・だって、だって、あんた呪いが怖いんでしょ。だから話せないんでしょ。うけるぅ〜。呪いが怖いくせに何威張ってんの?。そんなに睨んでも全然怖くないわよ。呪いにビビってる男なんか全然怖くない」
男は立ち上がったまま、荒い息をして女を睨み続けていた。
「何よ、怖くないって言ってるでしょ。ダメよ、そんなに睨んでも。全く意味ないわ。呪いが怖くて先が話せないんでしょ?」
「そ、そんなことは・・・・」
男は絞り出すように言いいながら、椅子に座った。
「あのね、呪いが怖くないなら、話せるわよね。でも、あなたは話せない。ビビりくんだから。そうなんでしょ?、ビビりくん!」
女の口調に男はイラついていたようだが、精いっぱいの虚勢を張って言った。
「こ、怖いわけないだろ。ちょ、ちょっと脅かしてやろうと思っただけさ。ふん、怖いことなんかあるか」
「あらそう。じゃあ、教えてよ。裏メニューを注文すると木の札が出てくるんでしょ。で、それからどうなるの」
男は緊張した面持ちで、一度バーボンの水割りを飲み込んでから話し始めた。
「そ、その札を握って10数えるんだ。そ、そうすると・・・・ふ、ふ、ふ、ふだにぃ・・・みみみみょ、みょじ・・・が・・・ぐわぁっ、がは、がはっ・・・」
「ちょ、ちょっとどうしたのよ。悪酔い?」
男は崩れ落ちるように椅子からずり落ちたのだった。
「がはっ、ぐへっ、ごほっ・・・」
しきりに咳こんでいた。そして、女の方を見た。その顔は恐怖と苦しみでひきつっていた。右手で喉元のシャツの襟をつかみ、左手は女の方へさしのばしていた。女は椅子から立ち上がり「やめてよ」と小さく叫んで、後ろに下がった。男は涙目で女に追いすがる。
「ぐへっ、ぐへっ、ぐへっ、・・・」
何か言っているようだったが声にはならなかった。しきりに喉から胸を押さえている。
「お客さん、お客さん、どうしたんですか?」
あわててカウンター内からバーテンが出てきた。そして、救急車が呼ばれたのだった。

男が担ぎ出されてから、女は何事もなかったように再びカウンターに座っていた。彼女は下を向いてほくそ笑んでいた。
「うふふふふ、むふふふふ。本物ね。間違いないわ。あれは呪いにかかったのよ。あの男が中身のない、格好だけの男なんてこと、見れば誰でもわかるわ。ただ誰もそれを言わないだけ。それをはっきり言うのだから・・・。しかも、呪いは現実にあった。行く価値はありそうね。あの男を使って正解だったわ。ふふふふふふ・・・・」
その姿にバーテンは恐怖を覚えていた。

それから数日後のことであった。
「ホント、しけた扉ね」
かろうじて「Bouz Bar」と読み取れるドアの前に女は立っていた。ゆっくりとドアをあけ、中に入った。
「いらっしゃいませ。ようこそBouz Barへ。どうぞお好きな席にお座りください」
予想通りの言葉であった。女は迷わずカウンターの中央に座った。そして、座るや否や
「裏メニューを」
と告げたのだった。カウンターの中のマスターは、そんな女を一睨みして、カウンターの下から木の札を出してきた。
「この木の札を握って・・・」
「10数えるのね。そうすると何か不思議なことが起きる。でも、そのことは誰にも言ってはいけない、言えば呪いにかかる、でしょ」
そう言って女はマスターに微笑みかけた。
「バカな男がいてね。べらべらと自慢げに話したのよ。そしたら・・・本当に呪いにかかったのよ。ルールはちゃんと守らなければいけないわよね」
「そうですね。お客さんも守ってください。そのバカな男のようにならないように・・・」
マスターは一瞬悲しそうな顔をした。が、それは本当に一瞬のことだった。すぐに陰気臭い無表情な顔に戻った。
「よく御存じなので、省略します。どうぞ、その木札を握って10数えてください」
女は緊張した面持ちだった。一度つばを飲み込んでから、木札に手を伸ばした。
「1・・・・・・・2・・・3・・・4・・・・」
女はゆっくりと数え始めた。
「8・・・9・・・・10・・・・、あっ、な、なにこれっ!」
女はあわてて木札を放りだし、思わず立ち上がってしまった。
「ほう、木札が震えることまでは聞いてなかたんですね」
「き、聞いてなかったわよ。だって、その男、途中でしゃべれなくなったんだもの。の、呪いにかかったって言ったでしょ」
女の顔はひきつっていた。
「ほう、そうですか。そのように出てきましたか。いやなに、人によって呪いの形は違うようなんですよ。その男は途中で話ができなくなった・・・・。命は?」
マスターは女に冷たく聞いた。その顔は死神としか言いようのない顔だった。
「し、知らないけど・・・・た、たぶん大丈夫だと・・・・救急車で運ばれたんだけど・・・」
女は大きく息を吸い込むと、マスターには目を合わせず椅子に座った。
「そうですか・・・まあ、助かったのでしょうねぇ・・・・。さて、では木札の話をしましょう。震えだした木札には文字が浮かびます。その文字は妖怪の名前です。その妖怪が・・・・あなたの真実の姿なんですよ」
マスターは顔を近づけて、陰気臭くそう言った。女は一瞬身を引く。が、元来勝気なその女は、マスターを睨みつけて言った。
「そ、そうなんですか。妖怪に譬えるなんて、ちょっと悪趣味ですね」
「そうですね。でも、人間の本質は妖怪のようなもの、いや、妖怪より恐ろしいもの・・・かもしれませんよ・・・・。さて、あなたはどうでしょうねぇ」
マスターは不気味にほほ笑んでいた。女は、放りだした木札をそっと見る。確かに文字が浮かんでいた。
「絡・・・・新婦?。何それ」
女はホッとしていた。もっとおどろおどろしい名前が浮かんでいるのだと思っていたからだ。鬼とか、蛇とか、死人とか、毒とか・・・。
「あぁ、絡新婦・・・こう書いて『じょろうぐも』と読むんです」
「ジョロウグモ?。なに、それ。蜘蛛、なの?」
「そう、蜘蛛です。誰もが忌み嫌う、あの蜘蛛です。しかもその蜘蛛は、見かけは色鮮やかで美しいのですが、猛毒を吐く。そう、あなたのようにね・・・・」
マスターは、また顔を近づけてそう言った。女はムッとした顔をしたが、マスターは無視をして木札を指ではさんだ。字の書いてあるほうを女に向ける。
「この名前の・・・絡新婦(じょろうぐも)の名前を持ったカクテルを造ります。それが当店の裏メニュー、あなたが注文した飲み物です」
女は恐怖に縮みあがって、何も言えなかった。マスターが後ろを向いてカクテルを作り始めてから、ようやく
「そ、そうですか・・・。ど、どんなのが出てくるのか・・・楽しみだわ。いひ、いひひひひ」
ひきつった笑いが、二人のほかには誰もいない店内に響いた。女は恐怖のせいなのか、一人で話を始めた。
「そ、それにしても、ちょっと失礼よね。毒を吐くなんて。わ、私がいつ毒を吐いたのかしら。と、とんでもないわ」
女はだんだんと怒り始めた。普段の自分のペースに戻ったようだ。
「そ、そうよ、ずいぶんと失礼ですよね。私がいつ毒を吐いたっていうの?。そいえば、あのバカな男も言っていたわね。失礼なマスターだって。勝手なことをズバズバというって。的外れで、いい加減で、ひどいことを言うって。ホント、ひどい話よね。私が毒を吐くっていうの?。ちょっと、黙ってないでなんとか言ったらどうなの。私に対して・・・」
「さぁ、どうぞ、これが当店の裏メニュー、特別なカクテル、あなただけのカクテル、あなた自身のカクテル・・・・絡新婦(じょろうぐも)です」
振り返ったマスターの手には、色鮮やかなカクテルが握られていた。

「キレイ・・・。ホント、綺麗なカクテルだわ。赤色、黄色、鮮やかな緑・・・。この黒い筋も・・・いいセンスね。うふふふ。いつまでも眺めていたいわ・・・・」
女はグラスを回しながらカクテルを眺めていた。
「どうぞお飲みください。あなたのためのカクテルですから」
マスターは無表情にそう言った。女は一度マスターを見ると
「おいしそう・・・ちょっと毒々しいけど・・・」
と言いながら、一口飲んだのだった。
「あっ甘い・・・おいしい・・・」
女は勢いよく飲み始めた。
「喉が渇いていたのよねぇ」
瞬く間にカクテルグラスは空になった。すると・・・・。
「うえっ、げほっ、おえっ、く、苦しい・・・・な、なに・・・これ・・・だに、ごれ・・・うえっ〜、ぎ、ぎもぢばるい・・・・」
女はこの世のものとは思えぬような声をあげ、カウンターに突っ伏した。そう思ったら、すぐに頭をあげ、喉をかきむしりながら濁った声をあげたのだった。
「ば、ばだしが(私が)・・・だに(何)をじだっで(したって)・・・・びうの(いうの)・・・・ぐ、ぐるじい(苦しい)」
「あなたは絡新婦ですから。いつもはあなたが毒を吐き、周りの人を苦しめているでしょ。今夜はあなた自身が、自分の毒で苦しむのですよ。あなたが飲んだカクテルは、今まであなたの毒で苦しんできた人の怨念でできているのです」
カウンターの上でのた打ち回っている女の耳元に、マスターは冷たく囁いたのだった。

やがて女はひくひくと痙攣し始めたかと思うと、動くのを止めた。まるで死んでしまったかのようだったが、ゆっくりと女は顔をあげたのだった。くしゃくしゃになった髪。涙と鼻水とよだれで化粧が落ちてしまい、女の顔は醜く汚れていた。その姿は先ほどまでいた綺麗な女ではなく、醜く汚らしい鬼のような顔をした女だった。
鬼のような女は、鬼のような声でひとこと
「だ〜れが、毒女だってぇ〜」
と言ったのだった。


第五夜★絡新婦(じょろうぐも)の毒・・・・後夜

「誰が毒女だっていうのよ〜、えっ、誰のことよ!」
女はふらふらと立ちあがって、マスターを睨みつけて言った。
「決まっているでしょう。あなたですよ」
にこやかにマスターは答えた。
「キーッ!、私が毒女だって!、お前、許さねぇぞ!」
「許さない・・・別に許してもらおうとも思いませんし、あなたに許されるようなことをしてもいません。何よりも、今だってあなたは毒を吐いているじゃないですか」
「わ、私がいつ毒を吐いたっ!」
女はマスターの胸倉を掴んできた。マスターは後ろにすっと身を引く。女の手は空を掴んだだけだった。「ちっ」と女の舌打ちが聞こえてきた。
「今ですよ。否、今までずっとですよ。いったいあなたの毒で何人の方を不幸にしたのですか?」
「不幸にした?。私が?。なによそれ、何のこと!」
「とぼけても無駄です。あなたのしてきたことは分かっています。なんせ、あなたは蜘蛛だ。それも毒蜘蛛だ。その木札は嘘はつきません。絡新婦とは、恐ろしい毒蜘蛛の妖怪なのですよ。あなたはその毒蜘蛛なんです」
いつになくマスターはハッキリとそう言った。そして、絡みつくような眼をすると、素早く女に近づき、耳元で
「自分でもわかっているのでしょ。いったいどれだけの人を不幸にしたのです?」
と囁いたのだった。女は一瞬固まる。しかし、すぐに地団太を踏んで
「うるさいうるさいうるさいっ!、私が誰に何をしようと私の勝手よ!」
と大声で叫んだのだった。
「あはははは、あはははは、あははは、そうよ、私が何をしようと、私の自由よ。悪いのはアイツラ。私に逆らうからよ。私を誰だと思っているの?。私は中心になるべき人間なのよ。それをどいつもこいつも私をないがしろにしようとして・・・・。いい気味だわ。当然の報いよ。私を出し抜こうなんて、100万年早いわよ。ふん、若ければいいってもんじゃないわよ。実力もないくせに。私より劣るくせに・・・・。なのになのになのになのにアイツラ・・・・なんであいつらばかりが華やかなところに行くの!、なんで私じゃないの!。許さない、私を出し抜くなんて。許さない、こんなにも綺麗で美しくて才能のある私を無視するなんて!。あんな無能なヤツラ、会社には不要なのよ。男も女も不要な奴らは排除すればいいのよ。私の罠にかかったアイツラがバカなのよ。あ〜っはっはっは。いい気味だわ。こんな楽しいことがあるかしら。あ〜っはっはっは」
女は立ったまま頭を揺らしながら大笑いしていた。しかし、突如
「それのどこが悪いの?、私のどこが毒女なのよっ!」
と叫び、マスターを突き飛ばしたのだった。今度は身をかわすことはできなかった。マスターは後ろによろめいた。マスターの後ろにならんだ酒瓶がガチャガチャと音を立てた。
「ちっ、割れなかったのね。つまんな〜い!、ふふふふ。そんなもの割れてしまえばいいのよ」
女はカウンターの奥の酒瓶の並んだ棚を指さして言った。
「どうせ客なんか来ないんでしょ。こんな腐った店には!。ちっ、今度は割ってやるわよ、いいえ、割るのはあなた。私はきっかけを与えるだけ。あは、あはははは」
「そう、いつもあなたはそうなのでしょう。あなたはきっかけを与えるだけ。だけど、そのせいで何人もの人が不幸になったのは事実だ」
「誰のことよ。誰が不幸になったっていうのよ。何を知っているっていうの?。えっ、言ってみなさいよ!。誰のことよ!」
「あなたの周りの人たちですよ。最初は誰もあなたのせいだと気が付かなかった。気がついても、のせられた者が悪いと思っていた。しかし、それが目に余ってくれば、誰だって気がつくものです。だからこそ、あなたは排除されているんですよ!」
マスターはいつになく、まるですっぱり何かを切り捨ててしまうような口調で言ったのだった。
「排除・・・排除排除排除・・・・そうか、ヤツラ、やっぱり私を・・・・私を除けものにしていたんだ。くっそ〜・・・今に見ていなさい。私にそんな仕打ちをした者がどうなるか、思い知らせてやるわ」
「それは無理ですよ」
「無理?。私にできないっていうの?。あはははは、面白いことを言うわね。どうして?、なぜ私には無理なの?」
「振り返ってみなさい。幼いころからのことを・・・。何度同じことを繰り返せば気がすむんですか?」
「幼いころのこと?、過去?、何度?・・・・・・あぁぁぁぁぁぁ、頭が頭が割れるぅ・・・・・あぁぁぁ・・・・い、痛いぃぃぃぃぃ」
女はそういうといきなり座ってカウンターに突っ伏して動かなくなった。マスターはやれやれといった顔をしたのだった。

しばらくして、女は顔をあげた。が、どこを見ているのか、目の焦点が合っていなかった。女は「るんるんるん、るんるんるん」と鼻歌を歌いながらかわいらしい声で、幼児のように語り始めた。
「あのねぇ、私はよい子、綺麗な子。誰もがほめてくれる女の子。こんな綺麗な子は見たことがないわって・・・。写真館のカメラマンもぉ、学校の先生もぉ、友達のお母さんもぉ、みんなみ〜んな私を綺麗だ、美しいって言ってくれるのぉ。将来が楽しみだって。うふふふ。そりゃあ毎日が楽しかったわ。いつも私が中心。いつも私が真中なのよ。周りの人は私を引き立てるためだけの存在なのぉ。うふふふ。幸せだったわ〜。・・・・・・でもでもでも・・・・」
声色と目つきが急変した。女はそこにいる誰かを睨みつけるようにして太い声で言った。
「くっそ、いっつもそうよ。いいところまでいくと邪魔が入る。なんでなんでなんでっ!、どうして邪魔ばっかりするのぉ。私の何がいけないっていうのぉ・・・・あぁぁぁぁ・・・・・。いいじゃないお芝居のセリフを変えたって、私が主役なんだしぃ、私にあったセリフならいいじゃない。そうよ、私が目立てばどんな発表会でもいいのよ。なのになのになのに・・・・なんでアイツがほめられるの?。なんで私じゃないの?。あんであんな子が・・・あんなブスで、ただ明るいだけが取り柄のクソ女がもてはやされるの!、なんで私じゃないの?。なんでいつも私は選ばれないの!。そうよ、いつもいつも私は選ばれない・・・。だからだからだから・・・・」
「イジメたのですね」
「そうよ、なにがいけないの?。・・・・いいえ、違うわ、そうじゃないわ。私は何もしてない、何もしてないわよ。私は・・・・」
「命じただけ、ですね?。あなたはいつも巣の真中にいて指図していただけ。小蜘蛛を使って・・・・」
「そうよ、それのどこがいけないの・・・。いいえ、違うわ、そんなこと知らないわ。私はきっかけを与えただけよ。あとは、勝手にみんながイジメを始めただけよ。私は知らないわ」
「で、庇う方に回る。いやな女だ」
「何よっ!、私は何もしてないって言ってるでしょ。私はイジメから救ってあげたのよ!」
「イジメが始まるきっかけを与えておいて、実際にイジメが始まったら庇う方に回り、相手が気を許したところで突き放す・・・。汚い手だ」
「あははははは、何が言いたいの?。突き放す?、汚い?、私は何もしてないわよ。私の手は汚れてないわ。私は美しいのよ。何が汚いよっ!、失礼ね、お前も・・・・」
「お前も?、なんですか」
「・・・・うふふふ、なんでもないわ〜。悪いのはアイツラなんだから。私は何にも知らないわ〜」
女は歌うように言った。
「まだ惚ける気ですか。ならば、会社でのこともあなたのせいではないと?」
「会社でのこと?・・・・なんのことかしら?」
横を向いてニヤニヤしている。
「あなたが不幸にした人のことですよ」
女の目つきが一瞬変わった。マスターを睨みつけ
「あんた、何を知っているっていうの?。ねぇ、言ってみなさいよ。いったい何を知っているの?、何を誰に聞いたのよ!」
そう叫けび、カウンターの上のコップを払いのけた。コップが吹っ飛び、大きな音を立てて割れた。が、マスターはその方向を見向きもしないでぼそりと言った。
「さて、何のことですかねぇ・・・、私は知りませんねぇ」
マスターはニヤリとしてそう言うと、女を見つめた。二人はしばらくそのままにらみ合っていた。

「誰よ、誰よ、誰よ、言いふらしているのは誰よ。ちょっと、言いなさいよ、誰なのよ、誰から聞いたのよ!。・・・この店の話をしていたのは・・・・アイツか、アイツか、アイツか・・・・。くっそ〜、犯人を見つけてやる」
「何の犯人を見つけるのですか?」
「言いふらした犯人よ!」
「何を言いふらしたのですか?」
「あのことよ!」
「あのこと?。あぁ、あの罠にはめた人のことですか?」
「罠?。ち、違うわよ、罠なんかにはめてない!、私は悪くない!」
「そうでしょうか?。悪いと思っていないなら、そんなにうろたえなくても・・・・」
マスターはニヤッと笑ったのだった。その笑いは・・・・呪いであった。マスターはじーっと女を見つめる。
「う、うろたえてなんか・・・・や、やめてよ、見つめないでっ!、な、なんでそんな目で見るの!、やめてよ!」
「何を怯えているんです?。大丈夫、なにも見えていませんから。あなたの後ろに何かが見えるわけではありませんから。ふふふふ」
マスターの不気味な笑い声が響いた。女は振り返って叫んだ。
「いやー!、やめてー!、私のせいじゃない!、私はなにもしていない!」
「そう、あなたはなにもしてない。あなたはきっかけを与えただけだ。でも、それは恐ろしい罠だった。あなたが張った蜘蛛の巣にその人はかかってしまっただけにすぎない」
「ちがうちがうちがう!。初めは本気だったのよ。本気で・・・・」
「はめようとした」
「いやー!、ちがうちがう。誤解よ誤解よ!」
「だけど、恨んでいますよ、その人は。ほうらその恨みが・・・・」
「ひー!」
女は叫ぶと失神してしまったのだった。
「おや、意外とやわなんですねぇ・・・」
マスターはそういうとカウンターの中から出てきたのだった。

「気付きましたか?」
女は椅子に座らされ、カウンターに伏せっていた。肩にはコートがかけてある。女の横にはマスターが座っていた。
「私・・・・いったい・・・・」
「ちょっと薬が効きすぎたようですね。いや、飲み物に入っていたわけではないですよ。ちょっと、呪いをかけただけです」
「呪い?」
「そう、あなたに本心を語らせるためにね、ちょっと操ったのですよ。あなただってやったじゃないですか。誘導ですよ」
「誘導?・・・・・あっ・・・・・」
女はひとこと言うと固まってしまった。
「さて、落ち着いたところで語ってもらいましょうか、蜘蛛の心を」
マスターはそういうと、カウンターの中に戻り、女の前に水の入ったコップを置いた。「大丈夫です、ただの水です」と言いながら。
「ふっ、語るも何も・・・・。知ってのとおりよ。私はいつも中心でいたいの。いつでもどこでも私が中心じゃなきゃいやなのよ。この木札、ホントね、嘘はつかないわ。私はまるで蜘蛛と同じ。いつもその場所の中心じゃなきゃ嫌なのよ。真中にいて、私好みの男性や、私の手足となってくれるような僕が来るのを待っているのよ。ホント、いやな女よね・・・。いつからこんな女になったのかしら・・・・。
ねぇ、あの人もやっぱり恨んでいるのかしら?・・・・恨んでいるに決まっているわよねぇ。あんなひどいことをしたんだもの。でもね、悪いのはあの人の方なの。私を捨てて若い女の方を大事にするからよ・・・・。
初めは単なる憧れの上司だった。仕事ができる頼りがいのある人。そのうちに男女の関係になった。当然よね。こんな綺麗な女が声をかければ落ちない男はないわ。でも、あの男は会社内で私を優遇してくれなかった。新しいプロジェクトのリーダーも別の女に回した。あんなブスでスタイルもよくない、仕事だけが生きがいのような女に・・・。実力だって私と変わらないのに。他の仕事もそう。私には回ってこない。私はいつもお飾り。ただ座っているだけで、たいしたことはしていない存在なのよ。私は何度も彼をなじった。ふん、何のために関係を持ったと思っているのよ。あの人を手に入れるためだけじゃないよの。男だけが欲しいなら、あんな男じゃなくてもいい。いい男はいっぱいいるわ。なのになのになのに・・・・あの男は私をないがしろにして・・・・。ふん、そんなんだから私は新人にすら舐められる存在になってしまった。片隅に追いやられ、そこでしか威張ってられない女・・・・。私にはそんなレッテルが貼られたのよ。だから・・・・。私はきっかけを与えたにすぎないわよ。ちょっとおかしなメールを社内のパソコンに流しただけ。それなのに勝手に噂が大きくなっていったのよ。女たらしの上司、自分が気に入った女性に重要な仕事に回す、私情をはさむダメ上司。仕事を餌に関係を迫るセクハラ上司・・・・・・。勝手に話が進んでいったわ。でもね・・・まさか、そんな打たれ弱いとは・・・・・。まさかあんなことになるなんて・・・・まさか命を・・・・・。
ふん、悪いのはアイツよ。私は関係ない。私は何にもしていない。私は部屋の隅で見ていただけよ・・・・・」
「そうですね。あなたは部屋の片隅に巣を張ってみていただけ。あなたがやったことは最初のきっかけを与えたにすぎない。それもあなたがやったという証拠はない。あなたは賢い・・・・が卑怯で寂しい存在だ」
マスターは寂しそうにそう言った。
「何よ、それ。私が孤独だっていうの?」
「孤独でしょ。あなたは一人っきりだ。もはや誰も味方はいない。美貌もそろそろ見向きもされなくなる年齢に来た。しかも、ただ外見が美しいだけじゃ、誰も愛してはくれない。そう、絡新婦(じょろうぐも)のように、外見はいくら綺麗で美しくても蜘蛛はしょせん蜘蛛だ。忌み嫌われる。周囲の人は・・・・もう気付いている。あなたが絡新婦だということを」
「ひ、ひどい人ね。よくそんなことが言えるわね。こ、こんなに苦しんでいるのに」
「あなたは苦しんでいる。それはあなたが孤立していることをあなたが知っているからでしょう。ただ、認めたくないだけだ。もういいじゃないですか、もうそろそろ認めたらどうですか。あなたは、あなた自身が忌み嫌われる存在となってしまっているということを」
女はマスターの方を見た。その目には涙がうっすらと浮かんでいた。女は涙を流さないように必死にこらえていた。
「泣いたらどうですか。素直に涙を流したらどうですか。いつまで突っ張っているつもりですか。もう疲れたでしょう。もういいんですよ、蜘蛛をやめても・・・・」
「うううう、くっ、くくく・・・・うわぁぁぁ、うわぁぁぁぁ・・・・・」
女はついに泣きだした。いったん流れ始めた涙は止まることを知らなかった。
「わかってるわよ、わかってるわよ、そんなこと・・・・。私だってわかってる・・・・でもでも・・・・あぁぁぁぁぁ・・・・」
「思いっきり泣きなさい。泣いて、今までの自分を涙と一緒に流してしまいなさい。それでいいのですよ」
マスターは優しく声をかけたのだった。店には女の泣き声がいつまでも響いていた。

「こんな私でも・・・・・・」
「えっ、なんですか?」
「こんな私でも・・・・変われるのかなぁ・・・・・」
マスターは優しく微笑むと
「もちろん、あなたがその気になれば」
と答えた。
「ど、どうすれば・・・・」
「そうですね。いっそのこと会社を辞めたらどうですか?。あなたには組織はあっていないと思いますよ」
「そ、そうなのかなぁ・・・・。そうかも知れないわね・・・・・。そうね、もうあそこにはいられないわよね。みんな私の正体に気付いているんだし・・・・・・」
「蜘蛛を辞めたいのなら会社も辞めたほうがいいでしょう。あなたは・・・・そうですねぇ、小さなかわいい喫茶店とか、花屋さんとか・・・・そういったこじんまりとしたお店で働いたほうが・・・・似合ってますよ」
「そ、そうかしら・・・・そのほうがいいかしら」
女はほほ笑んだ。
「まだいけるかしら。私の年でも大丈夫かしら」
「大丈夫です。OLさんよりも、案外庶民的なお店の店員さんのほうが合ってますよ。きっといい看板娘になれる。娘じゃないですけどね」
「まぁ、失礼ね!。でもいいわ。私も疲れたから。外見を着飾り、美しさを維持して、突っ張って生きていくのに・・・・もう疲れたわ・・・・」
女は大きくため息を吐いた。
「そうねぇ、気楽なほうがいいものね。自然体のほうが楽よね」
「自然のままでも綺麗なんですから、何も飾る必要はないでしょう。本来のかわいげのある、気さくなあなたを出せばいいのですよ。重い鎧は脱いで・・・・」
マスターの言葉に女はほほ笑んだ。
「ありがとう・・・・、マスターって、本当はいい人なのね。ちょっと不気味だけど・・・・。ねぇ、もう一つ聞いていいですか」
「何でしょう?」
「私に・・・・・本当に・・・・その・・・・あの人の・・・・」
「憑いていませんよ。大丈夫です。恨まれてもいません。もう二度と同じことをしなければね。許されるでしょう」
「そう・・・・許してもらえるんだ。もう二度と戻らなければ・・・・」
マスターはゆっくりとうなずいた。女はそれを見ると、立ちあがって言った
「私、生まれ変わります。会社は辞めます。重い鎧は脱いで、自分らしく生きます。新しい働き場所が決まったら・・・・また来ていいですか?」
「いつでもどうぞ。今度来るときは、絡新婦カクテルは出てきませんからご安心を」
「もう、マスターって意地悪ねっ、あははは」
女の笑い声が店に響いていた。いつまでもいつまでも・・・・・。

絡新婦(じょろうぐも)の毒・・・・完



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表 紙   和尚の怪しい部屋